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ありきたりだが、人の一生など儚いものだ。この御時勢、コンピューターの登場で自分自身の脳味噌の規則性と向き合わなければならない。しょうもない旅路につく訳だ。そこにはただ暗黒があるばかりで、光の灯った外の世界を断ち切らなければならない。よく言えば没頭する訳だが、容易く言えば物忘れに近い。外の世界のルールさえ忘れる。外の世界は動いている訳で、虫けらのように車に轢かれたり、壁に衝突したりする。万人の生と死。そして再生する。そんなものだ。A、T、G、C。痛くも痒くもない。暗黒の世界である。偶然光が目に入り目覚めたりするが、その瞬間など覚えていないし、意識さえはっきりしない。メルヘンチックな世界などありはしない。脳味噌の世界なんてそんな冷徹なものだと思う。 辞書を引いてみた。冷徹=理性によって行動するようす。感情<理性という不等号が成り立つようだ。黄金を築くのも理性か?確かに冷たい・・・・・。黄金の世界を築いた英雄さえ、周りにいた人間が良心的なのか、その国民が数の神秘を知る偉大さを併せ持っていたのだと思う。しかし、数字が反転すれば善悪さえひっくり返る歴史の魔力を感じる。まあ、偶然性に屁理屈を+したようなものだ。この物語は、ここから始まりここに終わると思う・・・。面倒臭い人はここだけでいいと思う。そんな投げ遣りな話しです。 私には一つの妄想がある。女に対してだ。私は死体しか愛せない。何人もの女に好感は抱くものの、結局一つのところに行きつき挫折する。熱を持った肌に触れたり、熱があると私の目が認知したりするとゾッとする。別に死体そのものの話しをしているのではない。観念といえば観念だが、ちょっと変わった国家観みたいなものだ。私だけじゃないと思う。そんな時代に産み落とされた。目で見て脳が反応する。言い訳といえば言い訳だが、説明し尽くすのは義務だと思う。歴史・時間の力学か・・・?とにかく速い・・・。熱を持った環境に生きていないのだ。不思議にも、熱を帯びた大地に立っている。めちゃくちゃだ。外国へ行きたいとは余り思わない。何処かに畏怖があるのだが、熱を持った国が多い。身体の話しだ。この国は雨が多い。 20××年、娯楽が娯楽でなくなってかなりたつ。余暇の過ごし方というのもレジャーというより思考の時という思惑が強くなってきた。これも消費文化のもたらした歪のようなもので、消費が快楽ならばシステムは反作用として脳に思考を要求する。オペラや歌舞伎を鑑賞するという重苦しさだ。テレビのバラエティーショーには必ず、哲学書を頭脳に内蔵した解説員が登場するようになった。古典的サイエンスフィクションに登場する人物は、至ってどこか暗い。現在は、正にその通りになった。 最近流行のサイエンスフィクションでは、狂気じみたバカ踊りをする哲人が登場する。そこには絶えずリズムが刻まれていて、数式から金銭の流れを読み解く術が流行りらしい。そこでは金銭によるリターンを手にするのが目的ではなく、脳から分泌される刺激だけを求める。一時の名誉よりも強い刺激が数字に隠れているという。食べ物や衣服は、完全に国家が管理するようになるらしい。宇宙食と宇宙服が蔓延し、もはやゴールドラッシュなど観念でしかない。いかに自らの観念を証明するか、余暇もそのことに費やされるようになり、それが生産性の増加にも繋がる。そこでは観念と技術の境界も曖昧で、技術力の進歩は著しく、形は後からついてくるようになる。個人力と多様性の集積=国力という図式も出来上がっているようだ。今は、フィクションを読むのも胃の痛くなる御時勢だ。何時の時代も異なる個性の出会う場は、重苦しくもある。 実際に嘗ては巨大スーパーやデパートに行列が出来ていたものの、現在は消費を操作する頭脳集団でしかない。あらゆる商品が全国各地へ送り出される基地のような風貌に変わった。愛嬌のあるキャラクターなどがよく登場していたようだが、現在は無機質なビルディングがあるだけだ。消費はチケット制へと還元されつつある。消費も観念になりつつあり、デパートではサンプルが陳列されているだけで、殆ど画像で処理される。消費による競争原理は廃れ、データによって振り分けられる配給制が普及し始め、非常に機械的になった。ある人が必要としている物が必要としている時に、必要としている分だけ支給される。自由に何でも購入出来る訳ではないが、その代償はシステムが自動的に補うようになっているシステムもまた存在する。データが自動的に消費を決定する。決して画一的ではなく、商品の数は新旧入り乱れ豊富すぎるぐらいである。個々人の趣向もすべてデータである。民主主義と自由を謳歌出来るのも民族の質の問題へと還元され、そのデータはきちんと証明される。戦わずして国力は数字で弾き出され、世界秩序を形作る。それも人間の集団心理が地球を危機に追いやった結果であり、この国には無味乾燥なものが増えた。これも宇宙空間での生活の準備か? しかし、海の向こうではゴージャスさが地に根付いているもので、地球の不滅さを実感する。ゴージャスさも民族の質か?風貌にもデータは存在し、無理をすればデータが狂い金銭問題へと跳ね返る。無駄を省くこの御時世、この国では無理なゴージャスさは消え去った。単純に金にならないだけである。質素に生きるというのも無力感は付き纏う。どちらが良いとは言えないだけに、宙に浮いたような感じだ。ロボットの登場するそんなサイエンスフィクションがあった。訳がわからなくなり、重力に感謝したりする。私は、ゴージャスな人種には生まれていないと思う。そう認識している。質素な人、ゴージャスな人。地球は美味い具合に回っているものだと思う。Revolution.歴史の力か、いろんな現象やら身体まで攪拌されているようだ。人種とは?あなたは誰だ?答えは?私に分かる訳がない。自由だ。それしか言いようがない。何がある?桜が散り、梅雨の季節だ・・・・。季節が身体に組み込まれている。 この時代の人間は、動くということをしなくなった。今ではすっかり過去の社会現象と消えた温暖化のことなど誰も意識しておらず、効率性のことしか話題になりはしない。とにかく、貨幣さえ持ち歩かないのだ。過去の偉人と毎日顔を突き合せるのが億劫になったのか、高度な技術で印刷しなければならない手間を省略する為か、完全に人間への絶望なのか定かではない。有るのはコンピューター上のデータだけで、全てはそこへ還元される訳だ。食べ物から衣服、日常生活に必要な経費は、全てコンピューターにインプットされている。そのデータは国家が管理する訳で、国家への信頼が必要十分条件である。そこへ至る過程を述べようとすれば、ページ数∞となりかねないのでここでは省略する。 崩れかけた地球環境が在るべき姿に戻ったのは、なんということはなく、地球規模でいかに働かないかと努力したグータラ革命みたいなもので、勤勉というレッテルを貼られた民族に生まれた私は、大変混乱し努力したものだ。結局労働へ還元され、やればやる程勤勉臭くなってくる汗を流すばかりでありました。効率性を考え、心理学やら何やら難しいものを拾い読みしたのだが、それらの著者は我々に勤勉というレッテルを貼り付けた方々であり、益々勤勉臭くなってくる。褒められているのか、只単に煽てられているだけなのか、大変混乱したのを憶えている。アイデンティティーの目覚めでもあった。 嘗て大流行したスターウォーズというサイエンスフィクション映画があった。現在でも続いており、これまた∞なのか?私なども正義の騎士などに憧れたものの、現実とのギャップは甚だしく、勤勉に生きようと努力している。皆、ルーク スカイウォーカーのように成ろうとするもので、フォースなどと言いながら戦争は勃発する。勝利した軍団はそれで宜しくフォースを謳歌する。此処にも歴史の魔術を感じるものだ。 ところが、実際はそれも一時のもので、ダースベーダー率いる悪の帝国が理想的であったりしないか?平和で長続きした江戸時代の剣士などは、恐らくポカーンと口を開けたまま人生を問いつつ歩き回っていたのではないかと思う。また、江戸時代もののドラマには悪がよく登場する。悪代官しかり、悪を裁く遠山の金さんさえ何処となく悪っぽい。正義を振り翳した赤穂浪士さえも、フォースの前では悪に陥る。フォースとは何だ?黒船か?デカルトか?ダースベーダーと何処となく重なる?海は広い・・・。想像を超えた何かに遭遇すると、秩序は崩壊する。善悪もである・・・。 プライド・・・中心・・・。逆にすると心中でもある。観念的男女合一か?コンピューター上では、凄まじいスピードで攪拌されてはいるが、無意識である。私という存在は、何らかの組み合わせの延長にすぎない。勿論身体がある限り、延長ではなくきちんと制限されている訳だ。そこには意識している私がいる訳で、だからこそコンピューターが手放せない。数字の魔力にもガチガチに縛られているが、無意識ながら何かに繋がっている。音であるのか光であるのか定かではない。 この御時勢、衣食住は国家が保障してくれている為、別に愛国心はないが、自然と国家の為に働いているというシステムになっている。例え余暇でもだ。何せ日々∞の中から組み合わせていくという生活スタイルなのだから致し方ない。∞の組み合わせなど無意識による処が多く、確認による技術を要し面倒ではあるが、システムの中の歯車としての私という存在も無意識ながら受け入れている。私はちっぽけな存在ということすら意識していない。私の前にはコンピューターがある。勿論、国家なども意識していない。偶にそんな質問がある時、ふと思うぐらいで、それも滅多にない。別に私だけではないと思う。偶々か・・・? こんな事をしている間にも、国家から恩義をきせられ、無意識ながらそれに報いている私がいる。和がプライドであるならば、国際秩序を重んじる今日の国家は粛清と再生を選択している。消費や金銭だけに熱狂する輩は、国家情報機関からそれに見合った観念の提示を求められ、それを証明出来なければ衣食住が没収され、情報教育システムへ送られる。閑散とした場に哲学書が陳列されてあり、エネルギーが無償で供給されるのだ。寝床と食料に不自由はないが、有り難くないエネルギーが湯水のように溢れ出て、観念的奉仕による還元を国家から要求される。「アイデアを視覚化し論理的に説明せよ!」これがキーワードとなっている。 嘗ては経済先進国を謳歌していたこの国も、脳化によるバランスが崩れ数字が反転した。金銭とアイデアを繋ぐ糸がプツリと切れ、凧が上空を旋回するが如く、金も泡と消え去った。残された資産は、アイデアだけである。文無しのプライドをプライドというのか知らんが、数字が乱立するこの御時勢、目には見えない軍国主義ではある。形だけのイデオロギーは消え去り、兵隊など養成していないが、観念的全体主義ではある。グローバルとは聞こえがいいが、コンピューターによる物的支配体制である。熱を帯び共産圏は崩壊し始めたが、一体誰が勝利した?亡霊という巨人は消え去りはしない。言葉にしろ存在そのものだ。いくら取り繕っても数字が暴いてしまう。人口から知能に至るまでだ。アルファベットと奇妙な図形が乱立する。私は無謀ながら共通項を探すのに躍起になっている。とてもプライドと言える代物ではない。大変機械的な世の中である。愛の近似値は、化け物のような兵器であり力であることに気付き始め、従順に自分自身と向き合うしかない。宗教なども選択の余地など余りなく、必然であるように思う。寂しさとは機械から学んだ。 この国の御家芸であったファジーとう言葉も金がなければ成立しなくなり、比率の問題に還元された。情報を駆使する軍事大国が好んで使う言葉へと転化してしまい、言葉も力と吸収なのか、ゴールドラッシュはカジノにならないカジノでもある。金が出すぎるくらい出る。その金は、後に情報に吸い取られ消える。近衛兵らしき者が立っていて、人々はガリガリと発する金属音に熱狂し陶酔する。一時の儚い夢は、国家へと還元されるシステムになっている。すべては、計画されているのだ。大金を手に入れた人物は、国家に愛される。化け物からのラブコール。逃げられない。巨大な国営消費システムが一日で誕生する。 和とはπである。そこには中心が存在する。現在のカジノで金銭を集積し分配する偶然性を装うマシーンの如く少数の集合体であり、目に見えない。嘗てこの国の中心部に人と金が集中し過ぎた為に情報が錯綜し、πの力学か、金が消え出した。マシーンが吸収したのか、魔物でも潜む強烈な力がそこに働いた為か、集積と分散のバランスが生命線でもあった。 この国の神もだ。中心部のとてつもないエネルギーであり、観念であり、プライドであったはずだ。原子爆弾の波紋は、観念さえ吹き飛ばし無力化した。私には、プライドは存在しない。生まれた時からだ。正確な観念も存在しない。混乱だけだ。悲しきファジーさではあるが、よく涙が浄化する。 神に対する観念は∞であり、当然ながら∞の解釈は存在するのであろうが、この御時勢国家の存在が問われる。金さえあれば盲目に楽しくそのような事を意識する必要などないのであろうが、∞の比率を形作れないのなら金が産み出せなくなり、国家の中心を覗き見る。そこには何もなく、観念があるだけである。1+1=2くらいの言葉では、確率が高すぎて金の光明を拝めない。観念の尺度が違いすぎる偽りの友情は盲目であり、盲人のような繊細さはない。築き上げた黄金長方形をまるでチョコレートを割るかの如く砕いてしまう。原料を買い、火で溶かし、液体にし、冷却する。再生出来る確率は高くはなく、作業の経費が嵩むだけである。チョコレートを大量生産するように、黄金ルートは平坦ではない。形式とは金に纏わる繊細さであり、国家による粛清は個人主義を用意する。再生とは個人であり、金には故人の幻影が付き纏う。死体の如く、金は冷凍保存される。愛とは時として熱を帯びるもので、愛のズレが甚だしい場合は兵器が登場し、クールダウンさせる。 正義を謳歌出来る民族に嫉妬さえしなくなった。必然的無気力であろうか?これも情報の力であろう。 現在でも二宮 金次郎の像は存在し、国策プロパガンダでもある。土を愛し、労働と読書の組み合わせ。コンピューターとは恐ろしい怪物だ。今、朱子学がブームである。高齢化社会のプロパガンダだけでなく、身体の組み合わせでもある。「地上の勤労青年少女よ集え!」ここにも無気力はあるが、無の連鎖を形作る私がいる。電子音で労働賛美を刻んでみた。自由の連鎖・・・、必然性。π。 体質と言うものは、身体から組み合わせられるデータであり、相性というのもデータである。脳内の秩序を乱す厄病神とは存在するもので、いかに優れたデータさえも混沌に陥れる。創生の逆であり、歴史の消滅でもある。敗戦とは、その以前に決まる。結果よりもプロセスであり、プロセスなくして物は生まれない。偶然性とは脳内にしか発生しないし、その結果は証明出来る。個々人が無作為にデータを交換しあうと、身体に異常をきたし効率性が減退する時もある。脳内の数式を読み解く能力のない輩は粛清され、国家情報機関が場を正確に振り分ける。構造改革などと声高に叫んでみても、無意識に身体に刻み込まれた構造を論理的に証明しなければ意味をなさない。脳内の構造が経済や軍事を司るのは古代ギリシアから変化していない。演劇も音楽も数式が秩序をもたらし、グローバルとは理屈である。民族の優劣もデータで決まり、軍事力が暗黒の時代も消え去った。そこには金銭も集積し、新たな産業も生まれる。幸福とは機械的でもある。マニュアルと権威を重んじる都市国家が増えた。個々人のデータによる多様性は保存され、形にするには形式的な作業が増えている。都市国家を連結する中央政府など存在すら希薄であるが、とてつもないスピードで機能している。人間の気配や臭いさえしない。形だけの模倣は消え去り、観念による証明を求められる。類似のパターンは確かに存在するのだが、当局が求めるのはわずかな誤差なのである。ここから形や物が生まれる。組み合わせを多少変化させるだけで、変幻自在の結果が現れる。 広告も戦略であり、国力であり、情報であり、哲学であり、産業である。観念を読み解く能力がアーティストと呼ばれる所以であるのだから戦力である。カメラマンが撮った写真は、自動的に中央政府へ送られる。ミュージシャンの醸し出す音が、国家に激震をもたらすこともある。平面に印刷された絵や音には、数字が隠れている。この数字が脳に与える影響もデータに保存され、+と−が線やら雷光のようなもので組み合わせられるのだ。思考や金銭の流れも当局により計算される。平和を声高に叫ぶアーティストの芸術性が、金や思考だけでなく兵器をも生み出す皮肉めいた矛盾も存在する。アートが生まれる、兵器が進歩する。堂堂巡りである。進歩?戦闘機にも音はある。ミサイルが落ちてこないにしても、目と耳から入ってくる光と音が脳を揺さぶる刺激はアート足り得るか? プロレタリアもブルジョアもなく、あるのは物だけである。我々の生活は機械によって守られているし、金銭もそこへ集積される。コンピューターの前では、誰しもが無産階級である。正確に世界中の情報を網羅しているのは、物であり機械である。人間の知識など個人の趣向が入り込んでくる為、歯車が空回りすることもあり、優れた知識人が無用の長物になりかねない。知識に対する権威が何よりも必要であるのにだ。無意識にも情報から何かを組み合わせるのは人間であるが、一時的でもある。すべてが流転する。物が物として生まれる。変化する。それも我々の身体でもある。急速なモデルチェンジが繰り返され、消費が消費でなくなる。日々の食生活のようでもある。金は払うが、動く為である。ただの流れだ。排泄もする。また動く。一体何を所有し得るか?生はある。複雑に絡み合う。 無人のハイテク兵器が飛び回っているのを日々目にすると、生を謳歌出来るものの不思議と無力感も漂う。もはや人間が勝利するのは不可能であるかのような気もする。可能性は増したが、絶望感も付き纏う。平和であるのにだ。 私はCFT7429という無機質なビルディングに居を構えている。正確には工業団地であるが、建築技術の進歩により各々独自の部屋構えをしている。部屋の内装は、人間の出入りによって変化する。外観は、刑務所のように殺伐としているのにだ。それも情報によって形作られている為であり、統制を脳内に叩き込まれる。内部は自由ではあるが、組み合わせの微妙なズレが生命線である。各ビルディングを繋ぐ航空輸送機も屋上に備え付けられている。オフィスと住居との境も消滅し、労働時間の規定はもはや存在しない。各人がベストをつくせるよう各人に任せているのであるが、アイデアを見つけ出すのは困難である為、24時間体制でもある。一体何時休んでいるのかなど野暮な質問もなくなった。勿論、よく寝るし食事もする。それは以前からの人間生活そのものだ。 嘗ての全体主義へのトラウマから抜けられずかなりの年月を要したが、衣食住と労働の自由は保障されている為、心地よいものでもある。労働に集中するにはよく出来たシステムである。只、嘗ての零戦やら巨大戦艦などを人間が扱っていたのとは逆であり、機械に操られている感じはする。一体感という意味では、さほど変化していないようでもある。 恒例であった渋滞や病院での長い待ち時間なども、この時代にはジョークになっているぐらいである。身体の細かな情報さえも機械にインプットされ、医師が診察報告書を添付してくれる。必要のある人は定時に病院へ趣き、診察を受ける。救急車もレーシングカー並みに走り抜けていくので、人命に関わる心配事も減少している。 私は公人であり公共の仕事をしている。私だけでなく、周りの人々も公人であり公共の仕事をしている。全ては中央政府に繋がっているからだ。機械から∞に溢れ出る情報から日々何かを組み合わせ、それを中央政府へ送り返す。何かというのは、何かであるからだ。例えば、私のルーツを辿ってみても祖先の先に祖先がある訳で、猿や海中の生物・・・その先もある訳だ。面倒臭いので無意識でもある。一応人間としての信仰心はあるが、特定の宗派に属していることはない。敬意は払うが結局何かへ行き着き、その繰り返しが∞に続く。それを根気よく毎日繰り返すのが日課でもある。信仰心にも近いようだが、別に宗教に熱心な訳でもない。参考程度に文献に目を通すぐらいなものだ。 こんな時代だから、王や皇室が生きるエネルギーでありシンボルでもある。絶対王政など存在しない為、意識する必然性はない。ある者は敬い、ある者は反発する。敬意にしろ怒りにしろ、物作りへのエネルギーへと還元され、∞への不可侵でもある。歴史がバックボーンである為、イデオロギーへと転化する場合もある。宗教心にも繋がるが、衣食住を国家が保障してくれているので、物へと集中する度合いが強く、宗教心はぼやけてくる。宗教心から大戦が勃発しかねないので、物を流通させるシステムがフル回転する。観念を物へ集中させ、宗教心も個々人の身体へと集中させる。同じ形でもそのプロセスにはズレが生じてくるが、観念の違いを物が吸収していく。多種多様な物が生まれる。それが市場に出回り、人々は物に熱狂する。物は冷たい。 今、サイレント映画がブームになっている。至る場面に電子音が流れ、俳優は監督の観念を身体の動作だけで表現する。ストーリーを読み解くのは、見ている個々人である為、ズレが生じてくる。上演時間は決まっているが、個々人の脳内は∞の時が流れる。映画が終わった後、カフェに屯し色々議論しあう。 コミュニケーションの場を提供するのも国策プロパガンダである。独身者を洗脳する為でもある。少子高齢化の時代、多産が求められる。バーチャル世代というかマスターベション世代の私は、性欲は強すぎるくらい強いのであるが、それが行為に結びつかない。連結装置が故障した列車のようでもある。身体が抵抗する。引きこもりは必然であり、情報の氾濫が私という身体を造っていると言っても過言ではない。身体に電流が流れ、心拍数もアップする。そこから数字を繋ぎ合わせるのである。電子音が体内で鼓動する。一人の身体は情報の集積であり、個々人で違う訳であるから、統合する環境作りは必然である。男女間でも観念の結びつきがスムーズに機能しないなら、合一は不可能である。SEXとは肉体的結びつきよりも、数字と観念の合一という屁理屈めいたところが強い。エクスタシーとは脳からもたらされる。独身者が増えるのも情報がもたらす必然であり、男女の合一も国境を容易く越える。映画然り演劇然り音楽然り、公共事業でもある。無意識的お見合いプロパガンダでもある。大抵、西洋との比較に打ちのめされた男達は、金を使うより金を生み出す事にエクスタシーを感じる者も少なくない。デートするのも面倒臭がる人間も増えている。多産とはアイデアである。自分の子供が自分と同じ環境を生きるのをイマジネーションするとゾッとする。絶望感が漂う。そこに接点があったりする。私は、死体しか愛せない。深海 比沙子は、そういう女である。サイレントな関係でもある。 リタイヤなんて言葉も消え失せ、コンピューターの前で人生の幕を閉じる老人も増えている。国家の為に殉じているのであろうか?大本営の亡霊か?強制労働ではなく、個人の自由に任せているのにだ。笑顔で死ぬ人もいるという。「ああ、俺もこうなるな・・・」新聞を読みながら頷いている私がいる。男女が出会い合一する場を提供するのも私の仕事である。観念の押し付けでは決してなく、個々人のイマジネーションに訴えかけるだけである。結論は人其々なので無責任ではあるが、情報を繋ぎ合わせるのはしんどい仕事でもある。マスターベーションからアイデアが生まれたりする。絶望的でもある。ハハハ・・・・。 敗戦国に生まれた必然であろうか、善即ちマスターベーションである。比較文化論は身体に痛みを生じ、必然的悪としての私が存在する。善悪の統合が物へ転化する。良い物を製造するのが国家の生命線であり、歴史の超越でもある。コンピューターとは、弁明であり懺悔であり無想でもある。私の言葉は、物へ転化する。私の身体もだ。情報である。勤勉さと基本的人権の尊重は、東西融合のカギであるか?西洋哲学を呪文のように唱えている私がいる。近似値を勤勉に探している私がいるが、接点がない。身体の痛み・・・。∞の神の愛も土に染み付き幾何学的ズレが生じ形を変えるのか、∞とは何もないのか定かではない。 円に情報の矢が飛び込んでくると、矢がベクトルへ、そして円は直線へと変化する。円の内部では、複雑な観念を計算出来る者が観念を噛み砕き分散させているが、直線では個々人がラインを作る。個々人がバラバラであるなら、ラインが整わないため観念を必要とする。情報が観念のズレを示し、宗教間の違いから争いも勃発しかねないので、円相へと戻りズレをぼかす作業を機械的に計算する。当たり前だが地球は丸い。 フィボナッチの奇数表を見てみる。1列目からの縦の数、1、5、11、19、29、41、55、71・・・・を三角形の底辺とするなら、n、即ち1、2、3、4、5、6、7、8、9、・・・の其々の数を3乗した数が一列目からの縦の各奇数に外部から近づく。1、5、11、19、29、41、55、71・・・の列の内部では、其々nの2乗に近い。その三角形の底辺のラインの頭は1であり、そこから4を+する。A、T、G、C。偶数も隠れている訳だ。5=1+4、11=5+4+2、19=11+4+2+2、・・・・∞・・・。2、4、6、8,10・・・・の偶数のリズムが∞に隠れている。もしこの三角形が、36度、72度、72度の二等辺三角形と、108度、36度、36度の二等辺三角形の組み合わせであるなら、黄金比の命題が生まれる。この三角形を組み合わせると、円に内接する正五角形が現れる。両手両足を開いた人間の身体でもある。nの横の各列を+すればnの3乗になる。ルネサンス・・・・・。∞の巨大な三角形を一人の身体とするなら、何通りもの身体の組み合わせが生じる。 このリズムが崩れると身体のバランスも崩れる。奇数とはどことなく男性的ではあるが、ミミッチイくらい繊細でもある。深海 比沙子は、その数字を私の身体に満たしてくれる冷たい数字のリズムの頭脳を持つ女である。フィボナッチの奇数表には、奇数しか存在せず∞にリズムを奏でながら続く訳だが、偶数も隠れており、それへの統合のヒントを深海 比沙子は与えてくれる。理数系肌の彼女が、スムーズなリズムやアイデアを手助けしてくれる。n番目とは奇数と偶数の組み合わせであり、3乗をすると立体、身体になる。このような計算を身体からスムーズに行える女に奇数は合一して行く。機械的な男女関係でもある。冷たい頭脳と温かい身体。組み合わせとは、死と生への再生でもある。 嘗ての名将と言われた歴史上の英雄も数字のリズムに長けていたのだと思う。ナポレオンしかり、織田 信長しかり、大量殺戮さえも正当化してきた。原子爆弾の大量殺戮も正当化され、アインシュタインは天才と称される。この波紋は全世界を飲み込み、最後の大戦になり、人間の進歩は平和の尺度で測られるようにもなった。皮肉か、それを予言していたのも被爆国の人物である。職業軍人などはこの国から消え去ったが、脳内のリズムだけは生き残る。それを労働へと還元し機械化し、最大多数の最大幸福を勝ち得ようと努力する。コンピューターとは大量殺戮兵器になるが、それを消し去る∞のリズムを探し、脳内の進歩からか幸福をもたらす道具へと転化させる。人間が機械に逆にコントロールされ、肉体労働が増えた。平和な時代に生まれたが、コンピューターによる情報化社会に生きる私の脳は帝国のリズムを感じる。しかし、あくまで個人主義的である。脳も個人のものであり、コンピューターもそうである。暗黒の時代が隣接するが、光のあたる場を脳内で必死に探している私がいる。黄金とは眩しいものではある。光物を好む趣味の悪い男でもある。 現在、深海 比沙子と私は情報で繋がった無機質なビルディングに住んでいるが、今が何時なのか分からない。彼女との合一は、スパイラルに陥り空気のようである。この物語には多くの人間と物語が登場しているはずだ。平和で無機質な時代を生きている私達である。彼女が誰で私が誰なのか数字を繋ぎ合わせる。 一体どれ位の言葉を発したであろうか?情熱と無気力が交差するなか、脳内の波動が板についている。板には、アルファベットと数字が溢れている。母国語を生み出す作業を繰り返している私がいる。生まれながらに観念さえ吹き飛ばされている必然性を脳内にインプットされ、何を語るのか? 言葉は生まれる。nの2乗と三角形。ピラミットと黄金。アルファベットの帝国。幸福論。機械的個人主義・・・・・。無・・・・・。 <了> |
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